判定人

あなたに降りそそぐ人間関係の問題、お互いの正義と正義のぶつかり合いーそのすべてに対し、その白黒、善悪、裁いてさしあげます。

テストテスト

判定人を始めるに至った経緯。

いま僕は、こころを持ったサイボーグだと言われる。

過去の僕はただのサイボーグだった。

 

小さなころから、たいていのことは人よりも出来、常に「正しい」か「正しくないか」で物事を選んできた人間だった。

 

リーダーとして物事を動かすことが多かったのは、その判断力と実行力、チームメイトとのコミュニケーション力など、総合して秀でていることが多く、理路整然と喋る能力に長けており、人から推薦されることが多かったからでしかない。

 

組織のリーダーとして、流れを先読みしながら最善の結果を得るために、冷静に判断する。それがメンバーにとって気の進まない決断のときもあるが、あくまで冷静に考え、出した結論である。私情を挟む余地は一切ない。

 

判定を下すのはこころを持ったサイボーグです。 編集

判定人を始めるに至った経緯。

いま僕は、こころを持ったサイボーグだと言われる。

過去の僕はただのサイボーグだった。

 

小さなころから、たいていのことは人よりも出来、常に「正しい」か「正しくないか」で物事を選んできた人間だった。

 

リーダーとして物事を動かすことが多かったのは、その判断力と実行力、チームメイトとのコミュニケーション力など、総合して秀でていることが多く、理路整然と喋る能力に長けており、人から推薦されることが多かったからでしかない。

 

組織のリーダーとして、流れを先読みしながら最善の結果を得るために、冷静に判断する。それがメンバーにとって気の進まない決断のときもあるが、あくまで冷静に考え、出した結論である。私情を挟む余地は一切ない。

 

当然、僕の判断によってチームで物事を動かすとき、思っていた通りの目指していた結果が得られたことは多かった。

 

しかし、これまで特定のメンバーから批判されることも多くあった。特定のメンバー…それはたいていの場合、「自己中心的な気持ち」を最優先に考えるメンバーだった。

 

彼らは自身が抱いている意見が「自己中心的な感覚」や「私情」もしくは「僕の判断で受ける自分自身へのデメリットによる嫌悪・抵抗」であるとわかりながら、それを後付の理由よって正当化し、僕のやり方は「冷徹過ぎる」と「間違っている」と批判してくるのだ。

 

その都度、僕は論理的な対話を望むが、論理的な対話において僕のようなサイボーグに敵うものなど滅多に現れない。

 

僕自身、筋が通っていると判断すればなんのプライドもなく、簡単に自分の意見を折る。(自己中心的な人間の多くが僕を頑固だと勘違いしているのは、彼らが僕を論破できないことに起因している。)

 

論理的に正しいことには全力で従う。これが僕のスタンスだ。

 

問題は、その論理的に「正しい」がどの方向性なのか、だ。方向が違えば、論理が異なるゆえに、お互いの正解が異なってくる。

 

これは世の中の争いごとが耐えない理由のひとつだ。戦争は戦争で、お互いの正義のぶつかり合いだ。そんな当たり前のことに気づいたのは、20代の後半になってからだった。

 

その頃まで僕は、設定した目標に対して論理的に正しい方向性であれば、みんなが嫌でもやるべきだと考えていた。強制力があっても、目標が達成できるのならそれが正しいと考えていた。

 

しかし、気づけば僕が組織として結果を出したとしても周りに友達はいなかった。僕は結果を出す上ではサイボーグのように優秀であったゆえに、こころを持った人間として認識されていなかったようだ。

 

よく考えてみた。理路整然と物事を判断することは間違ってはいないはずだ。しかし、何かが違う。

 

本当は、もっと人らしく、みんなの気持ちや想いまで汲み取った上で、組織としての成果を出す方が長期的に見て正しいのではないか。

 

このとき、改めて自分自身がいかに一般的な人間と異なるかを思い知ったのである。まるでこころを持っていないことに気づかされたのである。

 

正しい」は論理的に正しいだけが全てじゃなく、人間の気持ちを踏まえた上でも「正しく」あるべきなのだ。

 

これが人間関係上の問題において、重要なファクターとなるのは今更いう必要がないほど自明であるが、さらに重要なのは、気持ちが納得する「方向性」の提示である。

 

論理の方向性と同じく、すべての人が同じ「方向」に気持ちが向いているわけではない。だからこそ、一つのコミュニケーションにおいても衝突が起こるのだ。

 

だったらどうすれば良いか。

 

特定の問題において、当事者を含めたなるべく多くの人が納得するような「方向性」の提示をすべきではないか。

 

その方向性が多くの人によって「正しい」とされることが証明できるなら、間違った方向性をもつ個人はそれに従った方が良いと自然に思えるのではないか。

 

おそらくは、多くの問題においてその「方向性」を提示し、多くの人がそれに対して「賛同」するか「否定・拒絶」をするかを意思表示することである一定の「正しい」とされる方向性が示され、

 

それを受け入れる人がさらに増えていけば、人間関係における問題が低減していく可能性があるのではないか。

 

みんなが同じ「方向性」を持つからである。

 

僕は、個別の様々な人間関係上とトラブルを「法的に正しいかどうかではなく」、人間同士の気持ちの争いごととして捉え、気持ち的に納得度の高い「正しさ」を示してみたい。

 

長々と書いてきたが、簡単にいえば、「人として正しいのはどっちか」を明確にするのが、この判定人である。